下妻の歴史

豊なる時代の流れをたどる

                                  しもつま歴史紀行 市制施行55周年記念2009より〜

原始・古代   旧石器時代〜平安時代


下妻にいつごろから人が住むようになったかは定かではありませんが、西原遺跡から
約2万8千年前の石器が見つかっており、後期旧石器時代の生活の後が認められ
ます。

この地は、古くから水の恩恵をうけて文化が花開き、縄文時代早期の北山権現遺跡
(北大宝)や皆葉遺跡(皆葉)のほか、とくに縄文時代中期・後期の遺跡が数多く
残されています。また、弥生時代の溜井遺跡(小島)、古墳時代の柴崎古墳群
(村岡)などがみられ、大宝沼からは古墳時代後期のものと推定される
丸木舟も出土しています。

古代の下妻は常陸国と下総国の境に位置し、北部は常陸新治郡、東部は同筑波郡
中部、南部は下総国岡田郡に属していました。
このあたりには湿地帯がひろがり、【常陸風土記】や【万葉集】にも(騰波ノ江)
(鳥羽淡海)と記されています。

【しもつま】の地名が初めて分献に現れたのは、平安時代中期の(和名抄)です。
そのころ、平氏一族が常陸において強大な勢力を誇っていました。
下妻市域は平将門の乱の主舞台となりました。


中世 鎌倉時代〜室町時代

鎌倉時代初期、下妻荘の在地領主である下妻広幹が常陸守護の八田知家に殺害
されると、下妻地区は小山氏によって治められるようになりました。一方、千代川
地区は大方氏や豊田氏が支配されるところになったと思われます。
また、常陸国がほぼ源頼朝の支配下に置かれると、武家護持の神として厚く信仰
されていた鹿島神宮、田下村が寄進されています。

同じく鎌倉時代に、浄土真宗の祖である親鸞が坂井にいたことが、妻・恵信尼の
手紙により知られています。

南北朝時代になると、南朝方の拠点であった大宝城をめぐり、北朝方と戦いが繰り
広げました。そして大宝城は北朝方の高師冬に攻められて落城し、城主の下妻
政奏も城と運命をともにしました。

15世紀には結城氏の一門であった多賀谷氏が進出し、下妻を治めることとなりました。
多賀谷氏がきずいた下妻城(多賀谷城)は、旧大宝沼など湿地に囲まれた
難攻不落の要害といわれました。この城を本拠地として、現在の本城町を中心に
行田、吉沼、下栗をせめて領域を広げ、戦国大名として勢力を拡大しました。




近世  安土桃山〜江戸時代


多賀谷氏が最も権勢を誇ったのは、天正4年(1576年)に家督を継いだ
重経のころで、関城町(現筑西市)、千代川村(現下妻市)石下町、水海道市
(ともに現常総市)、つくば市の一部などを治めました。しかし反徳川の姿勢を
見せていたことから、慶長7年(1602年)に佐竹市の移に伴い秋田へ移り、
それとともに多賀谷氏の下妻支配も終わりを告げました。

江戸時代の下妻は、約100年間にわたりほとんど徳川幕府の地でした。
幕府は下妻を水戸とともに北に備える要地と考え、慶長11年(1606年)に徳川
家康の子・頼房を10万石で封じ、その後も、松平忠昌、松平定綱と親藩・譜代
の大名を配しました。

一方、慶安期ごろまでには鬼怒川に宗道河岸が開設され、続いて鎌庭河岸、皆場
河岸、小貝川にもしか河岸などもでき、周辺地域と江戸とを結ぶ舟運が発達します。
生活基盤をささえる江連用水や吉田用水、八間堀が開除されたのも江戸時代のこと
でした。正徳2年(1712年)、井上正長が下妻に入ると、その後は井上氏が長くこの地
を治め、やがて14代藩主の井上正己の下で明治維新を向かえることとなります。




近現代 明治時代〜平成



明治4年(1871年)の廃藩置県で下妻にはいくつもの県が置かれましたが、何度かの
整理、合併を経て、同8年に市域すべてが茨城県となりました。

この時期、町には警察署、郵便局、小中学校、裁判所、郡役所、銀行、税務署などが
次々と設置されています。明治22年(1889年)には町村制が施行され、旧下妻町と
6村、旧千代川村域に4村が成立されました。


大正2年(1913年)には常総線が開通。このころから電気、繊維、製粉、倉庫など様々
な産業がさかえてきます。昭和に入ると土浦と古河を結ぶ国道125号線の整備や
鬼怒川改修のため新川を掘削し、旧河川を水田化する工事などが行われました。




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